2018年

1月

31日

Michika先生/金沢キャンプ

 

「バガヴァッド・ギーターが教えるカルマヨーガというライフスタイルとは何か」

 

みちか先生から教わる機会に恵まれ、先生と共に過ごし、早朝6時からのプージャから始まり、夜のサットサンガまで、びっしりと濃い2日間を過ごすことができました。

 

そして、カルマヨーガというライフスタイルを教わる前に、まず人が求めるもの(プルシャ アルタ)

とは何なのかということを見ていき、人が欲しいものは沢山あるように見えるけど、本当は1つです。

そして、それは大体4つに分けられ、その4つを見ていきました。

アルタ(安心、安全)カーマ(快適さ)ダルマ(秩序)モークシャ(制限からフリー)

 

70億人いたら、それぞれの求めるのも違うから、沢山あるのは当然ですよね。同じ人間なんていないのですから、、、

なんで何かを追い求めるのかというと、根本的に私は幸せにならなくてはいけないという思いが根底にあるからで、それは全て制限されたものであり、それは状態ですということ。

 

不安という制限があるから、安心という制限が欲しい(アルタ)そして、そこに快適さを求める

(カーマ)。

ほとんどがそれで、人生を費やしてるというか、費やしてきました、、、

 

この世の中は状態であって、それは常に変わり続けるものという事に気づいていません。

空間に、時間に性別や国籍、個々に制限されてる、、、

 

なんとなく気付いてはいても、それを知る術がなかったから、常に何かを追い求めていく行いをし続けてしまう、、、ほんとにどれだけ、何かを求めるんでしょうね。よく次から次へと飽きずに求めるもんだと思います。

 

そして、癒しだったり、食事だったり、アルコールだったりに走ることで、一瞬、制限から外れた気分になり開放されたように思ってしまうので、それを繰り返すのも当然かもしれないです。

結局は何をしたかったのか?となりますよね、、、

制限を取り除きたかっただけであり、そのきっかけが欲しかっただけであり、制限から外れた自分が欲しかっただけなのだということを説明されて、ほんとに「そうそう」とうなずいていました。

 

どこかで気付ければ良いけどというより、気付かなくてはいけないでしょうと思う。

そこに気付いて、じゃあ、どうすれば良いかとなります。

 

行いには必ず結果があり、見える結果と見えない結果があります。

人間に対して問いかけるように、それがありますよと教えているのがヴェーダで、それはダルマ(秩序)に沿った行いを教えています。

 

ダルマは宇宙の法則であり、全てが法則で成り立っているので、ダルマ(良い行い)な行いをすれば、当然プンニャという貯金はどんどん貯まり、いつかはそれも返ってきます。

そして、アダルマ(サンスクリット語では「ア」がつくと反対の意味になります)な行い(悪い行い)をすれば、それはパーパという負債も膨らみます。当たり前のことですが、その当たり前のことが見えないんですよね。証明できない結果だから。

 

そして感情というのは、自分の近くにあるものだから、感情の優先順位は上となり、当たり前のことも見えなくなっているのもわかります。

なので、行いを通して心を育てていかなくてはいけないのです。

 

ダルマは法則なのだから、まずその部分のところをそれぞれの側面をあらわしているデーヴァター(ガネーシャ(全ての障害を取り除いてくれる)とかラクシュミー(家族や仕事、収入や財などの富)などの想い方、認識していくこと、マインドでキャッチしやすいようにデーヴァターがあるので、信じるとかではなく、客観的に見るようにしていくということ。

それは大切な事です。いろんな名前があるのも、私達の全ての部分なわけですから。

 

そして、ヴェーダは知識を教えていて、ヴェーダーンタは人が追い求めるもののゴールを教えています。

幸せな状況が欲しいのではなくて、すでに幸せは自分にあるという事実、何かを分け隔ててるものは何かというと、自分が分け隔てていることに気付いていないという事実、本当はへだててるものなどないのに、、、

じゃあ、どうすれば良いの?となりますよね。それは知れば良いだけですが、知る手段がなかったということです。

 

そして、それを知るには伝統的な方法論で学んできた先生から学ぶ必要があります。

なぜなら、自分で本を読んで学ぼうと思っても、自分の価値観でしか、理解が出来ないからで、それが混乱や勘違いが起きてくるからです。

 

全ての制限からフリーなもの(モークシャ)、すでにあるものであるという知識。

ただ、そこの理解するには心を育てていかないと、頭でっかちな知識となってしまいます。

 

知るべき事とするべき事をハッキリと理解することは、とても大切な事です。

そこをごちゃごちゃにしてしまってるから、そもそもするべき事が後回しだったり、それが解放と勘違いしたり、面倒だからとか、これが心地良いからとかで、こがやりたいから辞めるとかの行いを選択してしまう。無意識なのかはわかりませんが。

 

ブラフマンとは知るべきことであって、マインドを少しずつ成長させていくには、それはするべき事をして、マインドを育てるというものです。

 

ギーターは自分とは何かを教えている他に、マインドを育てる行いも教えているので、カルマヨーガというライフスタイルは、その時、その状況でのするべき事をしっかりとして、空いた時間を見つけて勉強をしていくことがするべきことです。勉強したいから、本来しなくてはいけない事をしない、辞めるとかではないです。

そこがいつも、混乱して自分の都合にすり替えてる気がします。

感情は理性を狂わせることが出来るし、どんなに勉強しても染められてしまうという事でした。

 

この教えは、毎回新鮮な気持ちで、教えを聞いていられるし、何回も繰り返し聞くという、その姿勢が大切。

「それ、前に聞いた」とかではなく、その教えが本当に理解していくことなので、1回聞いたからと言って、マインドは育たないです。

 

今回の教えで、ステキだなぁと思ったのは、言葉というのは、人に対して使う言葉を吟味し、人に対して貢献できる言葉を使う方が良いということ。その人にとって利益があるような言葉を使うようにするということです。それが出来れば、世の中混乱しないですよね。ケンカにもならないでしょうし。

そんな説明がキレイだなと酔いしれてしまいました。

 

長々と書いてしまいましたが、今回このようなキャンプを引き受けてくださり、天候が雪でハラハラしたりもしましたが、みちか先生のそのようなトラブルも楽しんでおられる姿、そして、私も勉強できるようにと、ムクティ先生が、食事の準備の為だけに日帰りで来てくださったりと、先生達の姿を実際に見させて頂けたことが何よりも勉強となりました。

本当にありがとうございました。

 

そして、ビクシャーをしてくださった方々、ご理解とご協力をありがとうございました。

県外からのご参加の方も多く、このようなキャンプは初めてでしたので、緊張しましたが、

皆さまがいろいろと手伝っていただけたおかげで、無事終えることが出来ました。

本当にありがとうございました。

 

また、皆さまと次回お会いできることを楽しみにしています。

この教えが継続していけますように。

2016年

11月

23日

@Kanazawa

 

ヤンララスタジオ@金沢がオープンいたします。

日程はまだはっきりと決まっておりませんが、年内の予定です(リフォームとDIYで壁塗りなど、もろもろありますので、仕上がるのにお時間がかかります 

オープンにあたり、何か特別なことはしませんので、スケジュール等などは、決まり次第ホームページとフェイスブックにてお知らせいたします。(たま~に先生達のシークレットクラスがあるかもしれません)

@小松スタジオでのスケジュールも少し変更になります。しばらくはスケジュールも変化すると思いますので、ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。

23年間、東京でずっとヘアメークのお仕事をしていたのですが、親の体調により、仕事もどのようにしていくかを考えながら、石川に戻る事を選びました。そのころに、特に興味もなかったヨーガを始め、とても面白くなってきたのですが、石川県に戻る選択をしたのですが、自分で練習は出来なかったので、そのヨ-ガを自分の練習として続けたいと思い、TTCを受講しました。

そして、いつの間にか、アーサナヨーガを教えることとなり、小松市にヨガスタジオをオープン。

最初はアパートを借りて、リビングでひっそりと始めました。そして、そこからスタジオとして構えることになりましたが、そこからも試行錯誤しながら7年が過ぎました。

皆さまに支えて頂き、先生達にもご協力頂きながら、そもそもヨーガって何なのか?を勉強しながら、何とかここまで、ヤンララも成長できてきたのではと思います。

そしてワークショップや、金沢の方々がヤンララに足を運んでくださること、ヴェーダーンタというものも、少しずつ学べる場所ができるようにという思いから、いろいろな方のご縁と支えが重なり、犀川の近くで静かな場所が見つかりました。

ヴェーダーンタなどのキャンプは県外からもご参加できますように宿泊の準備も整えていきます。

これからも、皆さまや先生達と一緒に成長できますよう、この選択という役割に没頭したいと思います。どうなるかは分かりませんが、よろしくお願い致します。

皆さまはもちろん、先生達、そして、この金沢に関しましては、身内の方達の、ヤンララが伝えるヨーガというものの理解とご支援をしてくださったことに大変感謝いたします。「ヨーガって何だろう?」を勉強していると、こういうことか・・・と思えるのとそれを実感しています(自分でびっくりしてます)。

これは、私一人では決して、成し得れないことです。本当にありがとうございます!

これからが、さらに自身の勉強も必要ですが、スタジオの管理というカルマも楽しもうと思います。

2015年

10月

09日

シャーンティ

シャーンティって、よく言われるのは平和とか穏やかとかの意味です。

ヨーガクラスの終わりとかにシャーンティッ・シャーンティッ・シャーンティヒーと唱えることも

多いです。それは、世界、相手、自分が平和とも言うのもそうですが、クラスの場合だと、世界(宇宙)、周り、自分に妨げがありませんようにということでもあります。

それで、クラスが無事に行えるというものという意味でもあるようです。

確かにそうだと思う。ただ平和もそうだけど、今、目の前にあることの妨げがないことがシャーンティであり、大切なことと理解できます。


そして、瞑想によるシャーンティはそういう穏やかとかの意味ではなく、それによって、解決すること

(自分は行い手ではない)という意味です。

行い手ではないというと、また、誤解をしてしまいそうな言葉ですが、行い手がなくなるという言葉通りのやらなくてはいけない役割(仕事や、家族など)すべての役割などの行いを辞めて、ヨーガを求める生き方をするとかではなくて、瞑想などで自分の役割は自分の中に解決するのであって、役割はあります。そして、その与えられた、選択した行いの役割はしなくてはいけないものです。

嫌とか合わないとか、ヨーガに携わってれば良いとかで、何かを放棄するのではないということです。自身の中に解決でき、手放される考えがシャーンティみたいですね。

すべては自身の中のことであり、そこに問題をみつけるのも解決できる成長も自分の中のことですね。

すごーく、わかりやすいなぁと思うけど、そのわかりやすいを理解できるゆとりのスペースが難しい。


そのシャーンティには3つの種類があり、一つ目のシャーンティは、何であれ、思考がないもので、熟睡中な時もそうだし、動揺と動揺の間の一時的な考えがない状態。

2つ目はいろんな考えが起こるのを知りつつ、その自分と考えの間に少し距離をもてるとき。

自分は考えではないという客観視できてきてる人(シャマ)ある程度落ち着きがあり、状況をうまくやり取りできる状態。

3つ目のシャーンティはモークシャ(自由)で、考えが何であろうと、影響されないもの。

そして、いろんな考えは自分だけど、私自身は考えではないということがわかってる事です。

考えが問題を大きくしたり、小さくしたりしてるだけで、私が問題を引き起こしてるのではないというものです。そして、考えを止めるとかコントロールするとかポジティブに考えるというような、どこか別に考えを追いやるのでもないです。

考えにどんなものを想おうが、いずれ考えは去っていくので、何も考えに影響されることがないという扱い方ができる状態の知識が自由という意味のモークシャです。

そのことをしってる人の考えは役に立つし、恩恵を与えます。その理解をすることで、自身がシャーンティというもの。

この知識がいつも持っているので、考えがどこにあっても、イーシュワラ(神とか自然とか)はそこにいて、自分とは離れていないので、本当の意味で、それが帰依者(バクティー)なのですね。

常にバクティーはあるもので、独立したものでもないと思いました。


なので、一つ目のシャーンティはあまり、意味がないかもしれません・・・

2015年

9月

29日

エゴ

エゴというとアハンカーラと言われます。

私、私という個人の観念。そして、エゴというとなんか響きが悪い印象があります。

よく耳にするのが、エゴを落としましょうとか破壊しましょうとか・・・

そのエゴを落とすって?どうやって?みたいな疑問もあります。

そもそもエゴって自分という考え、私は女性です、母です、父です、名前は○○ですという役割の個人というセンスが中心になっていることで、それが私という見方です。私とは何?ということを知らないと、当然その鞘(コーシャ)に閉じ込められてます。


アハンカーラ(エゴ)が悪いとかではなく、本当の自分自身は何からも影響を受けないものと知ることで、個人としての観念が道具としてそれぞれの役割として、社会とコミュニケーションをとれること、それを楽しめるゆとりが役立つというものです。

アハンカーラは社会に役立つ、役割なので、それをしっかりこなすことです。意味があってそれぞれに役割として装ってるので、それを楽しみましょう。ただ、その役割が私の本質ではないと知っているからこそ、楽しめるということです。


そのエゴ(アハンカーラ)というものをしっかりと分かっていないと、混乱してしまうし、エゴを捨てなさいとかの表現を誤解してしまいます。まるで、エゴ自体が悪いみたいな錯覚。

自分という観念があるので、感情や気分と同一視して、それに閉じ込められてるだけなので、自分とはそうではないと知ることが大切です。自分はアハンカーラではないと理解する練習が大切です。

その練習に瞑想が役立つということでした。

アハンカーラがなくなるのではなくて、知ることで。それが解消されるというもの。


ほんと、エゴとかアハンカーラの説明って、誤解が生じやすいので、扱うのも気を付けないといけないなぁと思います。それがわかってる上で、ちゃんと言葉の説明が大切だなぁとつくづく思います。

いろんな役割のときの感情や気分、自分の考えの癖を知ることで、そのアハンカーラも楽しめますように。

2015年

9月

17日

最初の瞑想

瞑想の意味っていろいろな事ややり方があり、そもそも瞑想の意味ってよく分かってませんでした。

イメージングな瞑想も、五感や考えをコントロールし、集中(八支則のプラティヤーハーラ、ダーラナにあたる)とか言われてて、何かいつも、何なんだろうと思ってました。

まずは瞼を閉じましょうとか・・・

 

まず、瞑想の目的って、考えをキレイにするため、考えを整理整頓して、定着させていく練習と知らされてからは、すんなりと瞼が閉じれると思いました。

瞑想にも段階があり、まずはウパーサナ瞑想で、ヴェーダーンタのの勉強したことを思い出し、自分に定着させていけるようにしていき、対象物を決めて(イーシュワラ)その中に生かされてるという想い方。ヴェーダーンタを勉強し始めた人の練習がまずは最初の瞑想です。

そして、その考えがさらに熟考されたらニディッティヤーサナ瞑想の段階です。

その瞑想はヴェーダーンタを勉強した人の瞑想で、対象物を設定するのではなくて、自分とイーシュワラは離れていない、自分の中にイーシュワラがいて、自身がそうであるという考えの熟考がある人の瞑想です。

 

プラティヤハーラは自分に考えを引き寄せられるようにコントロールや集中ができた状態で、ダーラナはイーシュワラを保ち、留めることができる状態。そして、ディヤーナ、瞑想はイーシュワラの中にあるという状態で、最後にサマーディ、没頭することでイーシュワラと一体で、イーシュワラの中に自分は解決してる状態。サマーディはとても大切な状態の体験であり、考えを熟考していくには必要です。常にサマーディでいれるわけではなく、それをゴールと思ってしまうとその状態にならなくてはという、違う意味での執着になってしまいます。気付かないうちに・・・サマーディにも段階があるそうです。

 

ですので、瞑想はアンタッカラナシュッディ(考えをキレイにしていく)練習であり、それを思い出す練習であり、自然にそれが自分に起こっていける練習が瞑想だと自分に知らされて、とても納得できるし、瞼を閉じることがとても自然に思えるし、自分自身が喜びであり、自身が安心安全、自身が良き友達であり、一番のパートナーだというのも納得です。

こんな穏やかな表現が瞑想という意味だなぁとつくづく思います。

2018年

1月

31日

Michika先生/金沢キャンプ

 

「バガヴァッド・ギーターが教えるカルマヨーガというライフスタイルとは何か」

 

みちか先生から教わる機会に恵まれ、先生と共に過ごし、早朝6時からのプージャから始まり、夜のサットサンガまで、びっしりと濃い2日間を過ごすことができました。

 

そして、カルマヨーガというライフスタイルを教わる前に、まず人が求めるもの(プルシャ アルタ)

とは何なのかということを見ていき、人が欲しいものは沢山あるように見えるけど、本当は1つです。

そして、それは大体4つに分けられ、その4つを見ていきました。

アルタ(安心、安全)カーマ(快適さ)ダルマ(秩序)モークシャ(制限からフリー)

 

70億人いたら、それぞれの求めるのも違うから、沢山あるのは当然ですよね。同じ人間なんていないのですから、、、

なんで何かを追い求めるのかというと、根本的に私は幸せにならなくてはいけないという思いが根底にあるからで、それは全て制限されたものであり、それは状態ですということ。

 

不安という制限があるから、安心という制限が欲しい(アルタ)そして、そこに快適さを求める

(カーマ)。

ほとんどがそれで、人生を費やしてるというか、費やしてきました、、、

 

この世の中は状態であって、それは常に変わり続けるものという事に気づいていません。

空間に、時間に性別や国籍、個々に制限されてる、、、

 

なんとなく気付いてはいても、それを知る術がなかったから、常に何かを追い求めていく行いをし続けてしまう、、、ほんとにどれだけ、何かを求めるんでしょうね。よく次から次へと飽きずに求めるもんだと思います。

 

そして、癒しだったり、食事だったり、アルコールだったりに走ることで、一瞬、制限から外れた気分になり開放されたように思ってしまうので、それを繰り返すのも当然かもしれないです。

結局は何をしたかったのか?となりますよね、、、

制限を取り除きたかっただけであり、そのきっかけが欲しかっただけであり、制限から外れた自分が欲しかっただけなのだということを説明されて、ほんとに「そうそう」とうなずいていました。

 

どこかで気付ければ良いけどというより、気付かなくてはいけないでしょうと思う。

そこに気付いて、じゃあ、どうすれば良いかとなります。

 

行いには必ず結果があり、見える結果と見えない結果があります。

人間に対して問いかけるように、それがありますよと教えているのがヴェーダで、それはダルマ(秩序)に沿った行いを教えています。

 

ダルマは宇宙の法則であり、全てが法則で成り立っているので、ダルマ(良い行い)な行いをすれば、当然プンニャという貯金はどんどん貯まり、いつかはそれも返ってきます。

そして、アダルマ(サンスクリット語では「ア」がつくと反対の意味になります)な行い(悪い行い)をすれば、それはパーパという負債も膨らみます。当たり前のことですが、その当たり前のことが見えないんですよね。証明できない結果だから。

 

そして感情というのは、自分の近くにあるものだから、感情の優先順位は上となり、当たり前のことも見えなくなっているのもわかります。

なので、行いを通して心を育てていかなくてはいけないのです。

 

ダルマは法則なのだから、まずその部分のところをそれぞれの側面をあらわしているデーヴァター(ガネーシャ(全ての障害を取り除いてくれる)とかラクシュミー(家族や仕事、収入や財などの富)などの想い方、認識していくこと、マインドでキャッチしやすいようにデーヴァターがあるので、信じるとかではなく、客観的に見るようにしていくということ。

それは大切な事です。いろんな名前があるのも、私達の全ての部分なわけですから。

 

そして、ヴェーダは知識を教えていて、ヴェーダーンタは人が追い求めるもののゴールを教えています。

幸せな状況が欲しいのではなくて、すでに幸せは自分にあるという事実、何かを分け隔ててるものは何かというと、自分が分け隔てていることに気付いていないという事実、本当はへだててるものなどないのに、、、

じゃあ、どうすれば良いの?となりますよね。それは知れば良いだけですが、知る手段がなかったということです。

 

そして、それを知るには伝統的な方法論で学んできた先生から学ぶ必要があります。

なぜなら、自分で本を読んで学ぼうと思っても、自分の価値観でしか、理解が出来ないからで、それが混乱や勘違いが起きてくるからです。

 

全ての制限からフリーなもの(モークシャ)、すでにあるものであるという知識。

ただ、そこの理解するには心を育てていかないと、頭でっかちな知識となってしまいます。

 

知るべき事とするべき事をハッキリと理解することは、とても大切な事です。

そこをごちゃごちゃにしてしまってるから、そもそもするべき事が後回しだったり、それが解放と勘違いしたり、面倒だからとか、これが心地良いからとかで、こがやりたいから辞めるとかの行いを選択してしまう。無意識なのかはわかりませんが。

 

ブラフマンとは知るべきことであって、マインドを少しずつ成長させていくには、それはするべき事をして、マインドを育てるというものです。

 

ギーターは自分とは何かを教えている他に、マインドを育てる行いも教えているので、カルマヨーガというライフスタイルは、その時、その状況でのするべき事をしっかりとして、空いた時間を見つけて勉強をしていくことがするべきことです。勉強したいから、本来しなくてはいけない事をしない、辞めるとかではないです。

そこがいつも、混乱して自分の都合にすり替えてる気がします。

感情は理性を狂わせることが出来るし、どんなに勉強しても染められてしまうという事でした。

 

この教えは、毎回新鮮な気持ちで、教えを聞いていられるし、何回も繰り返し聞くという、その姿勢が大切。

「それ、前に聞いた」とかではなく、その教えが本当に理解していくことなので、1回聞いたからと言って、マインドは育たないです。

 

今回の教えで、ステキだなぁと思ったのは、言葉というのは、人に対して使う言葉を吟味し、人に対して貢献できる言葉を使う方が良いということ。その人にとって利益があるような言葉を使うようにするということです。それが出来れば、世の中混乱しないですよね。ケンカにもならないでしょうし。

そんな説明がキレイだなと酔いしれてしまいました。

 

長々と書いてしまいましたが、今回このようなキャンプを引き受けてくださり、天候が雪でハラハラしたりもしましたが、みちか先生のそのようなトラブルも楽しんでおられる姿、そして、私も勉強できるようにと、ムクティ先生が、食事の準備の為だけに日帰りで来てくださったりと、先生達の姿を実際に見させて頂けたことが何よりも勉強となりました。

本当にありがとうございました。

 

そして、ビクシャーをしてくださった方々、ご理解とご協力をありがとうございました。

県外からのご参加の方も多く、このようなキャンプは初めてでしたので、緊張しましたが、

皆さまがいろいろと手伝っていただけたおかげで、無事終えることが出来ました。

本当にありがとうございました。

 

また、皆さまと次回お会いできることを楽しみにしています。

この教えが継続していけますように。

2016年

11月

23日

@Kanazawa

 

ヤンララスタジオ@金沢がオープンいたします。

日程はまだはっきりと決まっておりませんが、年内の予定です(リフォームとDIYで壁塗りなど、もろもろありますので、仕上がるのにお時間がかかります 

オープンにあたり、何か特別なことはしませんので、スケジュール等などは、決まり次第ホームページとフェイスブックにてお知らせいたします。(たま~に先生達のシークレットクラスがあるかもしれません)

@小松スタジオでのスケジュールも少し変更になります。しばらくはスケジュールも変化すると思いますので、ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。

23年間、東京でずっとヘアメークのお仕事をしていたのですが、親の体調により、仕事もどのようにしていくかを考えながら、石川に戻る事を選びました。そのころに、特に興味もなかったヨーガを始め、とても面白くなってきたのですが、石川県に戻る選択をしたのですが、自分で練習は出来なかったので、そのヨ-ガを自分の練習として続けたいと思い、TTCを受講しました。

そして、いつの間にか、アーサナヨーガを教えることとなり、小松市にヨガスタジオをオープン。

最初はアパートを借りて、リビングでひっそりと始めました。そして、そこからスタジオとして構えることになりましたが、そこからも試行錯誤しながら7年が過ぎました。

皆さまに支えて頂き、先生達にもご協力頂きながら、そもそもヨーガって何なのか?を勉強しながら、何とかここまで、ヤンララも成長できてきたのではと思います。

そしてワークショップや、金沢の方々がヤンララに足を運んでくださること、ヴェーダーンタというものも、少しずつ学べる場所ができるようにという思いから、いろいろな方のご縁と支えが重なり、犀川の近くで静かな場所が見つかりました。

ヴェーダーンタなどのキャンプは県外からもご参加できますように宿泊の準備も整えていきます。

これからも、皆さまや先生達と一緒に成長できますよう、この選択という役割に没頭したいと思います。どうなるかは分かりませんが、よろしくお願い致します。

皆さまはもちろん、先生達、そして、この金沢に関しましては、身内の方達の、ヤンララが伝えるヨーガというものの理解とご支援をしてくださったことに大変感謝いたします。「ヨーガって何だろう?」を勉強していると、こういうことか・・・と思えるのとそれを実感しています(自分でびっくりしてます)。

これは、私一人では決して、成し得れないことです。本当にありがとうございます!

これからが、さらに自身の勉強も必要ですが、スタジオの管理というカルマも楽しもうと思います。

2015年

10月

09日

シャーンティ

シャーンティって、よく言われるのは平和とか穏やかとかの意味です。

ヨーガクラスの終わりとかにシャーンティッ・シャーンティッ・シャーンティヒーと唱えることも

多いです。それは、世界、相手、自分が平和とも言うのもそうですが、クラスの場合だと、世界(宇宙)、周り、自分に妨げがありませんようにということでもあります。

それで、クラスが無事に行えるというものという意味でもあるようです。

確かにそうだと思う。ただ平和もそうだけど、今、目の前にあることの妨げがないことがシャーンティであり、大切なことと理解できます。


そして、瞑想によるシャーンティはそういう穏やかとかの意味ではなく、それによって、解決すること

(自分は行い手ではない)という意味です。

行い手ではないというと、また、誤解をしてしまいそうな言葉ですが、行い手がなくなるという言葉通りのやらなくてはいけない役割(仕事や、家族など)すべての役割などの行いを辞めて、ヨーガを求める生き方をするとかではなくて、瞑想などで自分の役割は自分の中に解決するのであって、役割はあります。そして、その与えられた、選択した行いの役割はしなくてはいけないものです。

嫌とか合わないとか、ヨーガに携わってれば良いとかで、何かを放棄するのではないということです。自身の中に解決でき、手放される考えがシャーンティみたいですね。

すべては自身の中のことであり、そこに問題をみつけるのも解決できる成長も自分の中のことですね。

すごーく、わかりやすいなぁと思うけど、そのわかりやすいを理解できるゆとりのスペースが難しい。


そのシャーンティには3つの種類があり、一つ目のシャーンティは、何であれ、思考がないもので、熟睡中な時もそうだし、動揺と動揺の間の一時的な考えがない状態。

2つ目はいろんな考えが起こるのを知りつつ、その自分と考えの間に少し距離をもてるとき。

自分は考えではないという客観視できてきてる人(シャマ)ある程度落ち着きがあり、状況をうまくやり取りできる状態。

3つ目のシャーンティはモークシャ(自由)で、考えが何であろうと、影響されないもの。

そして、いろんな考えは自分だけど、私自身は考えではないということがわかってる事です。

考えが問題を大きくしたり、小さくしたりしてるだけで、私が問題を引き起こしてるのではないというものです。そして、考えを止めるとかコントロールするとかポジティブに考えるというような、どこか別に考えを追いやるのでもないです。

考えにどんなものを想おうが、いずれ考えは去っていくので、何も考えに影響されることがないという扱い方ができる状態の知識が自由という意味のモークシャです。

そのことをしってる人の考えは役に立つし、恩恵を与えます。その理解をすることで、自身がシャーンティというもの。

この知識がいつも持っているので、考えがどこにあっても、イーシュワラ(神とか自然とか)はそこにいて、自分とは離れていないので、本当の意味で、それが帰依者(バクティー)なのですね。

常にバクティーはあるもので、独立したものでもないと思いました。


なので、一つ目のシャーンティはあまり、意味がないかもしれません・・・

2015年

9月

29日

エゴ

エゴというとアハンカーラと言われます。

私、私という個人の観念。そして、エゴというとなんか響きが悪い印象があります。

よく耳にするのが、エゴを落としましょうとか破壊しましょうとか・・・

そのエゴを落とすって?どうやって?みたいな疑問もあります。

そもそもエゴって自分という考え、私は女性です、母です、父です、名前は○○ですという役割の個人というセンスが中心になっていることで、それが私という見方です。私とは何?ということを知らないと、当然その鞘(コーシャ)に閉じ込められてます。


アハンカーラ(エゴ)が悪いとかではなく、本当の自分自身は何からも影響を受けないものと知ることで、個人としての観念が道具としてそれぞれの役割として、社会とコミュニケーションをとれること、それを楽しめるゆとりが役立つというものです。

アハンカーラは社会に役立つ、役割なので、それをしっかりこなすことです。意味があってそれぞれに役割として装ってるので、それを楽しみましょう。ただ、その役割が私の本質ではないと知っているからこそ、楽しめるということです。


そのエゴ(アハンカーラ)というものをしっかりと分かっていないと、混乱してしまうし、エゴを捨てなさいとかの表現を誤解してしまいます。まるで、エゴ自体が悪いみたいな錯覚。

自分という観念があるので、感情や気分と同一視して、それに閉じ込められてるだけなので、自分とはそうではないと知ることが大切です。自分はアハンカーラではないと理解する練習が大切です。

その練習に瞑想が役立つということでした。

アハンカーラがなくなるのではなくて、知ることで。それが解消されるというもの。


ほんと、エゴとかアハンカーラの説明って、誤解が生じやすいので、扱うのも気を付けないといけないなぁと思います。それがわかってる上で、ちゃんと言葉の説明が大切だなぁとつくづく思います。

いろんな役割のときの感情や気分、自分の考えの癖を知ることで、そのアハンカーラも楽しめますように。

2015年

9月

17日

最初の瞑想

瞑想の意味っていろいろな事ややり方があり、そもそも瞑想の意味ってよく分かってませんでした。

イメージングな瞑想も、五感や考えをコントロールし、集中(八支則のプラティヤーハーラ、ダーラナにあたる)とか言われてて、何かいつも、何なんだろうと思ってました。

まずは瞼を閉じましょうとか・・・

 

まず、瞑想の目的って、考えをキレイにするため、考えを整理整頓して、定着させていく練習と知らされてからは、すんなりと瞼が閉じれると思いました。

瞑想にも段階があり、まずはウパーサナ瞑想で、ヴェーダーンタのの勉強したことを思い出し、自分に定着させていけるようにしていき、対象物を決めて(イーシュワラ)その中に生かされてるという想い方。ヴェーダーンタを勉強し始めた人の練習がまずは最初の瞑想です。

そして、その考えがさらに熟考されたらニディッティヤーサナ瞑想の段階です。

その瞑想はヴェーダーンタを勉強した人の瞑想で、対象物を設定するのではなくて、自分とイーシュワラは離れていない、自分の中にイーシュワラがいて、自身がそうであるという考えの熟考がある人の瞑想です。

 

プラティヤハーラは自分に考えを引き寄せられるようにコントロールや集中ができた状態で、ダーラナはイーシュワラを保ち、留めることができる状態。そして、ディヤーナ、瞑想はイーシュワラの中にあるという状態で、最後にサマーディ、没頭することでイーシュワラと一体で、イーシュワラの中に自分は解決してる状態。サマーディはとても大切な状態の体験であり、考えを熟考していくには必要です。常にサマーディでいれるわけではなく、それをゴールと思ってしまうとその状態にならなくてはという、違う意味での執着になってしまいます。気付かないうちに・・・サマーディにも段階があるそうです。

 

ですので、瞑想はアンタッカラナシュッディ(考えをキレイにしていく)練習であり、それを思い出す練習であり、自然にそれが自分に起こっていける練習が瞑想だと自分に知らされて、とても納得できるし、瞼を閉じることがとても自然に思えるし、自分自身が喜びであり、自身が安心安全、自身が良き友達であり、一番のパートナーだというのも納得です。

こんな穏やかな表現が瞑想という意味だなぁとつくづく思います。

2018年

1月

31日

Michika先生/金沢キャンプ

 

「バガヴァッド・ギーターが教えるカルマヨーガというライフスタイルとは何か」

 

みちか先生から教わる機会に恵まれ、先生と共に過ごし、早朝6時からのプージャから始まり、夜のサットサンガまで、びっしりと濃い2日間を過ごすことができました。

 

そして、カルマヨーガというライフスタイルを教わる前に、まず人が求めるもの(プルシャ アルタ)

とは何なのかということを見ていき、人が欲しいものは沢山あるように見えるけど、本当は1つです。

そして、それは大体4つに分けられ、その4つを見ていきました。

アルタ(安心、安全)カーマ(快適さ)ダルマ(秩序)モークシャ(制限からフリー)

 

70億人いたら、それぞれの求めるのも違うから、沢山あるのは当然ですよね。同じ人間なんていないのですから、、、

なんで何かを追い求めるのかというと、根本的に私は幸せにならなくてはいけないという思いが根底にあるからで、それは全て制限されたものであり、それは状態ですということ。

 

不安という制限があるから、安心という制限が欲しい(アルタ)そして、そこに快適さを求める

(カーマ)。

ほとんどがそれで、人生を費やしてるというか、費やしてきました、、、

 

この世の中は状態であって、それは常に変わり続けるものという事に気づいていません。

空間に、時間に性別や国籍、個々に制限されてる、、、

 

なんとなく気付いてはいても、それを知る術がなかったから、常に何かを追い求めていく行いをし続けてしまう、、、ほんとにどれだけ、何かを求めるんでしょうね。よく次から次へと飽きずに求めるもんだと思います。

 

そして、癒しだったり、食事だったり、アルコールだったりに走ることで、一瞬、制限から外れた気分になり開放されたように思ってしまうので、それを繰り返すのも当然かもしれないです。

結局は何をしたかったのか?となりますよね、、、

制限を取り除きたかっただけであり、そのきっかけが欲しかっただけであり、制限から外れた自分が欲しかっただけなのだということを説明されて、ほんとに「そうそう」とうなずいていました。

 

どこかで気付ければ良いけどというより、気付かなくてはいけないでしょうと思う。

そこに気付いて、じゃあ、どうすれば良いかとなります。

 

行いには必ず結果があり、見える結果と見えない結果があります。

人間に対して問いかけるように、それがありますよと教えているのがヴェーダで、それはダルマ(秩序)に沿った行いを教えています。

 

ダルマは宇宙の法則であり、全てが法則で成り立っているので、ダルマ(良い行い)な行いをすれば、当然プンニャという貯金はどんどん貯まり、いつかはそれも返ってきます。

そして、アダルマ(サンスクリット語では「ア」がつくと反対の意味になります)な行い(悪い行い)をすれば、それはパーパという負債も膨らみます。当たり前のことですが、その当たり前のことが見えないんですよね。証明できない結果だから。

 

そして感情というのは、自分の近くにあるものだから、感情の優先順位は上となり、当たり前のことも見えなくなっているのもわかります。

なので、行いを通して心を育てていかなくてはいけないのです。

 

ダルマは法則なのだから、まずその部分のところをそれぞれの側面をあらわしているデーヴァター(ガネーシャ(全ての障害を取り除いてくれる)とかラクシュミー(家族や仕事、収入や財などの富)などの想い方、認識していくこと、マインドでキャッチしやすいようにデーヴァターがあるので、信じるとかではなく、客観的に見るようにしていくということ。

それは大切な事です。いろんな名前があるのも、私達の全ての部分なわけですから。

 

そして、ヴェーダは知識を教えていて、ヴェーダーンタは人が追い求めるもののゴールを教えています。

幸せな状況が欲しいのではなくて、すでに幸せは自分にあるという事実、何かを分け隔ててるものは何かというと、自分が分け隔てていることに気付いていないという事実、本当はへだててるものなどないのに、、、

じゃあ、どうすれば良いの?となりますよね。それは知れば良いだけですが、知る手段がなかったということです。

 

そして、それを知るには伝統的な方法論で学んできた先生から学ぶ必要があります。

なぜなら、自分で本を読んで学ぼうと思っても、自分の価値観でしか、理解が出来ないからで、それが混乱や勘違いが起きてくるからです。

 

全ての制限からフリーなもの(モークシャ)、すでにあるものであるという知識。

ただ、そこの理解するには心を育てていかないと、頭でっかちな知識となってしまいます。

 

知るべき事とするべき事をハッキリと理解することは、とても大切な事です。

そこをごちゃごちゃにしてしまってるから、そもそもするべき事が後回しだったり、それが解放と勘違いしたり、面倒だからとか、これが心地良いからとかで、こがやりたいから辞めるとかの行いを選択してしまう。無意識なのかはわかりませんが。

 

ブラフマンとは知るべきことであって、マインドを少しずつ成長させていくには、それはするべき事をして、マインドを育てるというものです。

 

ギーターは自分とは何かを教えている他に、マインドを育てる行いも教えているので、カルマヨーガというライフスタイルは、その時、その状況でのするべき事をしっかりとして、空いた時間を見つけて勉強をしていくことがするべきことです。勉強したいから、本来しなくてはいけない事をしない、辞めるとかではないです。

そこがいつも、混乱して自分の都合にすり替えてる気がします。

感情は理性を狂わせることが出来るし、どんなに勉強しても染められてしまうという事でした。

 

この教えは、毎回新鮮な気持ちで、教えを聞いていられるし、何回も繰り返し聞くという、その姿勢が大切。

「それ、前に聞いた」とかではなく、その教えが本当に理解していくことなので、1回聞いたからと言って、マインドは育たないです。

 

今回の教えで、ステキだなぁと思ったのは、言葉というのは、人に対して使う言葉を吟味し、人に対して貢献できる言葉を使う方が良いということ。その人にとって利益があるような言葉を使うようにするということです。それが出来れば、世の中混乱しないですよね。ケンカにもならないでしょうし。

そんな説明がキレイだなと酔いしれてしまいました。

 

長々と書いてしまいましたが、今回このようなキャンプを引き受けてくださり、天候が雪でハラハラしたりもしましたが、みちか先生のそのようなトラブルも楽しんでおられる姿、そして、私も勉強できるようにと、ムクティ先生が、食事の準備の為だけに日帰りで来てくださったりと、先生達の姿を実際に見させて頂けたことが何よりも勉強となりました。

本当にありがとうございました。

 

そして、ビクシャーをしてくださった方々、ご理解とご協力をありがとうございました。

県外からのご参加の方も多く、このようなキャンプは初めてでしたので、緊張しましたが、

皆さまがいろいろと手伝っていただけたおかげで、無事終えることが出来ました。

本当にありがとうございました。

 

また、皆さまと次回お会いできることを楽しみにしています。

この教えが継続していけますように。

2016年

11月

23日

@Kanazawa

 

ヤンララスタジオ@金沢がオープンいたします。

日程はまだはっきりと決まっておりませんが、年内の予定です(リフォームとDIYで壁塗りなど、もろもろありますので、仕上がるのにお時間がかかります 

オープンにあたり、何か特別なことはしませんので、スケジュール等などは、決まり次第ホームページとフェイスブックにてお知らせいたします。(たま~に先生達のシークレットクラスがあるかもしれません)

@小松スタジオでのスケジュールも少し変更になります。しばらくはスケジュールも変化すると思いますので、ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。

23年間、東京でずっとヘアメークのお仕事をしていたのですが、親の体調により、仕事もどのようにしていくかを考えながら、石川に戻る事を選びました。そのころに、特に興味もなかったヨーガを始め、とても面白くなってきたのですが、石川県に戻る選択をしたのですが、自分で練習は出来なかったので、そのヨ-ガを自分の練習として続けたいと思い、TTCを受講しました。

そして、いつの間にか、アーサナヨーガを教えることとなり、小松市にヨガスタジオをオープン。

最初はアパートを借りて、リビングでひっそりと始めました。そして、そこからスタジオとして構えることになりましたが、そこからも試行錯誤しながら7年が過ぎました。

皆さまに支えて頂き、先生達にもご協力頂きながら、そもそもヨーガって何なのか?を勉強しながら、何とかここまで、ヤンララも成長できてきたのではと思います。

そしてワークショップや、金沢の方々がヤンララに足を運んでくださること、ヴェーダーンタというものも、少しずつ学べる場所ができるようにという思いから、いろいろな方のご縁と支えが重なり、犀川の近くで静かな場所が見つかりました。

ヴェーダーンタなどのキャンプは県外からもご参加できますように宿泊の準備も整えていきます。

これからも、皆さまや先生達と一緒に成長できますよう、この選択という役割に没頭したいと思います。どうなるかは分かりませんが、よろしくお願い致します。

皆さまはもちろん、先生達、そして、この金沢に関しましては、身内の方達の、ヤンララが伝えるヨーガというものの理解とご支援をしてくださったことに大変感謝いたします。「ヨーガって何だろう?」を勉強していると、こういうことか・・・と思えるのとそれを実感しています(自分でびっくりしてます)。

これは、私一人では決して、成し得れないことです。本当にありがとうございます!

これからが、さらに自身の勉強も必要ですが、スタジオの管理というカルマも楽しもうと思います。

2015年

10月

09日

シャーンティ

シャーンティって、よく言われるのは平和とか穏やかとかの意味です。

ヨーガクラスの終わりとかにシャーンティッ・シャーンティッ・シャーンティヒーと唱えることも

多いです。それは、世界、相手、自分が平和とも言うのもそうですが、クラスの場合だと、世界(宇宙)、周り、自分に妨げがありませんようにということでもあります。

それで、クラスが無事に行えるというものという意味でもあるようです。

確かにそうだと思う。ただ平和もそうだけど、今、目の前にあることの妨げがないことがシャーンティであり、大切なことと理解できます。


そして、瞑想によるシャーンティはそういう穏やかとかの意味ではなく、それによって、解決すること

(自分は行い手ではない)という意味です。

行い手ではないというと、また、誤解をしてしまいそうな言葉ですが、行い手がなくなるという言葉通りのやらなくてはいけない役割(仕事や、家族など)すべての役割などの行いを辞めて、ヨーガを求める生き方をするとかではなくて、瞑想などで自分の役割は自分の中に解決するのであって、役割はあります。そして、その与えられた、選択した行いの役割はしなくてはいけないものです。

嫌とか合わないとか、ヨーガに携わってれば良いとかで、何かを放棄するのではないということです。自身の中に解決でき、手放される考えがシャーンティみたいですね。

すべては自身の中のことであり、そこに問題をみつけるのも解決できる成長も自分の中のことですね。

すごーく、わかりやすいなぁと思うけど、そのわかりやすいを理解できるゆとりのスペースが難しい。


そのシャーンティには3つの種類があり、一つ目のシャーンティは、何であれ、思考がないもので、熟睡中な時もそうだし、動揺と動揺の間の一時的な考えがない状態。

2つ目はいろんな考えが起こるのを知りつつ、その自分と考えの間に少し距離をもてるとき。

自分は考えではないという客観視できてきてる人(シャマ)ある程度落ち着きがあり、状況をうまくやり取りできる状態。

3つ目のシャーンティはモークシャ(自由)で、考えが何であろうと、影響されないもの。

そして、いろんな考えは自分だけど、私自身は考えではないということがわかってる事です。

考えが問題を大きくしたり、小さくしたりしてるだけで、私が問題を引き起こしてるのではないというものです。そして、考えを止めるとかコントロールするとかポジティブに考えるというような、どこか別に考えを追いやるのでもないです。

考えにどんなものを想おうが、いずれ考えは去っていくので、何も考えに影響されることがないという扱い方ができる状態の知識が自由という意味のモークシャです。

そのことをしってる人の考えは役に立つし、恩恵を与えます。その理解をすることで、自身がシャーンティというもの。

この知識がいつも持っているので、考えがどこにあっても、イーシュワラ(神とか自然とか)はそこにいて、自分とは離れていないので、本当の意味で、それが帰依者(バクティー)なのですね。

常にバクティーはあるもので、独立したものでもないと思いました。


なので、一つ目のシャーンティはあまり、意味がないかもしれません・・・

2015年

9月

29日

エゴ

エゴというとアハンカーラと言われます。

私、私という個人の観念。そして、エゴというとなんか響きが悪い印象があります。

よく耳にするのが、エゴを落としましょうとか破壊しましょうとか・・・

そのエゴを落とすって?どうやって?みたいな疑問もあります。

そもそもエゴって自分という考え、私は女性です、母です、父です、名前は○○ですという役割の個人というセンスが中心になっていることで、それが私という見方です。私とは何?ということを知らないと、当然その鞘(コーシャ)に閉じ込められてます。


アハンカーラ(エゴ)が悪いとかではなく、本当の自分自身は何からも影響を受けないものと知ることで、個人としての観念が道具としてそれぞれの役割として、社会とコミュニケーションをとれること、それを楽しめるゆとりが役立つというものです。

アハンカーラは社会に役立つ、役割なので、それをしっかりこなすことです。意味があってそれぞれに役割として装ってるので、それを楽しみましょう。ただ、その役割が私の本質ではないと知っているからこそ、楽しめるということです。


そのエゴ(アハンカーラ)というものをしっかりと分かっていないと、混乱してしまうし、エゴを捨てなさいとかの表現を誤解してしまいます。まるで、エゴ自体が悪いみたいな錯覚。

自分という観念があるので、感情や気分と同一視して、それに閉じ込められてるだけなので、自分とはそうではないと知ることが大切です。自分はアハンカーラではないと理解する練習が大切です。

その練習に瞑想が役立つということでした。

アハンカーラがなくなるのではなくて、知ることで。それが解消されるというもの。


ほんと、エゴとかアハンカーラの説明って、誤解が生じやすいので、扱うのも気を付けないといけないなぁと思います。それがわかってる上で、ちゃんと言葉の説明が大切だなぁとつくづく思います。

いろんな役割のときの感情や気分、自分の考えの癖を知ることで、そのアハンカーラも楽しめますように。

2015年

9月

17日

最初の瞑想

瞑想の意味っていろいろな事ややり方があり、そもそも瞑想の意味ってよく分かってませんでした。

イメージングな瞑想も、五感や考えをコントロールし、集中(八支則のプラティヤーハーラ、ダーラナにあたる)とか言われてて、何かいつも、何なんだろうと思ってました。

まずは瞼を閉じましょうとか・・・

 

まず、瞑想の目的って、考えをキレイにするため、考えを整理整頓して、定着させていく練習と知らされてからは、すんなりと瞼が閉じれると思いました。

瞑想にも段階があり、まずはウパーサナ瞑想で、ヴェーダーンタのの勉強したことを思い出し、自分に定着させていけるようにしていき、対象物を決めて(イーシュワラ)その中に生かされてるという想い方。ヴェーダーンタを勉強し始めた人の練習がまずは最初の瞑想です。

そして、その考えがさらに熟考されたらニディッティヤーサナ瞑想の段階です。

その瞑想はヴェーダーンタを勉強した人の瞑想で、対象物を設定するのではなくて、自分とイーシュワラは離れていない、自分の中にイーシュワラがいて、自身がそうであるという考えの熟考がある人の瞑想です。

 

プラティヤハーラは自分に考えを引き寄せられるようにコントロールや集中ができた状態で、ダーラナはイーシュワラを保ち、留めることができる状態。そして、ディヤーナ、瞑想はイーシュワラの中にあるという状態で、最後にサマーディ、没頭することでイーシュワラと一体で、イーシュワラの中に自分は解決してる状態。サマーディはとても大切な状態の体験であり、考えを熟考していくには必要です。常にサマーディでいれるわけではなく、それをゴールと思ってしまうとその状態にならなくてはという、違う意味での執着になってしまいます。気付かないうちに・・・サマーディにも段階があるそうです。

 

ですので、瞑想はアンタッカラナシュッディ(考えをキレイにしていく)練習であり、それを思い出す練習であり、自然にそれが自分に起こっていける練習が瞑想だと自分に知らされて、とても納得できるし、瞼を閉じることがとても自然に思えるし、自分自身が喜びであり、自身が安心安全、自身が良き友達であり、一番のパートナーだというのも納得です。

こんな穏やかな表現が瞑想という意味だなぁとつくづく思います。

2018年

1月

31日

Michika先生/金沢キャンプ

 

「バガヴァッド・ギーターが教えるカルマヨーガというライフスタイルとは何か」

 

みちか先生から教わる機会に恵まれ、先生と共に過ごし、早朝6時からのプージャから始まり、夜のサットサンガまで、びっしりと濃い2日間を過ごすことができました。

 

そして、カルマヨーガというライフスタイルを教わる前に、まず人が求めるもの(プルシャ アルタ)

とは何なのかということを見ていき、人が欲しいものは沢山あるように見えるけど、本当は1つです。

そして、それは大体4つに分けられ、その4つを見ていきました。

アルタ(安心、安全)カーマ(快適さ)ダルマ(秩序)モークシャ(制限からフリー)

 

70億人いたら、それぞれの求めるのも違うから、沢山あるのは当然ですよね。同じ人間なんていないのですから、、、

なんで何かを追い求めるのかというと、根本的に私は幸せにならなくてはいけないという思いが根底にあるからで、それは全て制限されたものであり、それは状態ですということ。

 

不安という制限があるから、安心という制限が欲しい(アルタ)そして、そこに快適さを求める

(カーマ)。

ほとんどがそれで、人生を費やしてるというか、費やしてきました、、、

 

この世の中は状態であって、それは常に変わり続けるものという事に気づいていません。

空間に、時間に性別や国籍、個々に制限されてる、、、

 

なんとなく気付いてはいても、それを知る術がなかったから、常に何かを追い求めていく行いをし続けてしまう、、、ほんとにどれだけ、何かを求めるんでしょうね。よく次から次へと飽きずに求めるもんだと思います。

 

そして、癒しだったり、食事だったり、アルコールだったりに走ることで、一瞬、制限から外れた気分になり開放されたように思ってしまうので、それを繰り返すのも当然かもしれないです。

結局は何をしたかったのか?となりますよね、、、

制限を取り除きたかっただけであり、そのきっかけが欲しかっただけであり、制限から外れた自分が欲しかっただけなのだということを説明されて、ほんとに「そうそう」とうなずいていました。

 

どこかで気付ければ良いけどというより、気付かなくてはいけないでしょうと思う。

そこに気付いて、じゃあ、どうすれば良いかとなります。

 

行いには必ず結果があり、見える結果と見えない結果があります。

人間に対して問いかけるように、それがありますよと教えているのがヴェーダで、それはダルマ(秩序)に沿った行いを教えています。

 

ダルマは宇宙の法則であり、全てが法則で成り立っているので、ダルマ(良い行い)な行いをすれば、当然プンニャという貯金はどんどん貯まり、いつかはそれも返ってきます。

そして、アダルマ(サンスクリット語では「ア」がつくと反対の意味になります)な行い(悪い行い)をすれば、それはパーパという負債も膨らみます。当たり前のことですが、その当たり前のことが見えないんですよね。証明できない結果だから。

 

そして感情というのは、自分の近くにあるものだから、感情の優先順位は上となり、当たり前のことも見えなくなっているのもわかります。

なので、行いを通して心を育てていかなくてはいけないのです。

 

ダルマは法則なのだから、まずその部分のところをそれぞれの側面をあらわしているデーヴァター(ガネーシャ(全ての障害を取り除いてくれる)とかラクシュミー(家族や仕事、収入や財などの富)などの想い方、認識していくこと、マインドでキャッチしやすいようにデーヴァターがあるので、信じるとかではなく、客観的に見るようにしていくということ。

それは大切な事です。いろんな名前があるのも、私達の全ての部分なわけですから。

 

そして、ヴェーダは知識を教えていて、ヴェーダーンタは人が追い求めるもののゴールを教えています。

幸せな状況が欲しいのではなくて、すでに幸せは自分にあるという事実、何かを分け隔ててるものは何かというと、自分が分け隔てていることに気付いていないという事実、本当はへだててるものなどないのに、、、

じゃあ、どうすれば良いの?となりますよね。それは知れば良いだけですが、知る手段がなかったということです。

 

そして、それを知るには伝統的な方法論で学んできた先生から学ぶ必要があります。

なぜなら、自分で本を読んで学ぼうと思っても、自分の価値観でしか、理解が出来ないからで、それが混乱や勘違いが起きてくるからです。

 

全ての制限からフリーなもの(モークシャ)、すでにあるものであるという知識。

ただ、そこの理解するには心を育てていかないと、頭でっかちな知識となってしまいます。

 

知るべき事とするべき事をハッキリと理解することは、とても大切な事です。

そこをごちゃごちゃにしてしまってるから、そもそもするべき事が後回しだったり、それが解放と勘違いしたり、面倒だからとか、これが心地良いからとかで、こがやりたいから辞めるとかの行いを選択してしまう。無意識なのかはわかりませんが。

 

ブラフマンとは知るべきことであって、マインドを少しずつ成長させていくには、それはするべき事をして、マインドを育てるというものです。

 

ギーターは自分とは何かを教えている他に、マインドを育てる行いも教えているので、カルマヨーガというライフスタイルは、その時、その状況でのするべき事をしっかりとして、空いた時間を見つけて勉強をしていくことがするべきことです。勉強したいから、本来しなくてはいけない事をしない、辞めるとかではないです。

そこがいつも、混乱して自分の都合にすり替えてる気がします。

感情は理性を狂わせることが出来るし、どんなに勉強しても染められてしまうという事でした。

 

この教えは、毎回新鮮な気持ちで、教えを聞いていられるし、何回も繰り返し聞くという、その姿勢が大切。

「それ、前に聞いた」とかではなく、その教えが本当に理解していくことなので、1回聞いたからと言って、マインドは育たないです。

 

今回の教えで、ステキだなぁと思ったのは、言葉というのは、人に対して使う言葉を吟味し、人に対して貢献できる言葉を使う方が良いということ。その人にとって利益があるような言葉を使うようにするということです。それが出来れば、世の中混乱しないですよね。ケンカにもならないでしょうし。

そんな説明がキレイだなと酔いしれてしまいました。

 

長々と書いてしまいましたが、今回このようなキャンプを引き受けてくださり、天候が雪でハラハラしたりもしましたが、みちか先生のそのようなトラブルも楽しんでおられる姿、そして、私も勉強できるようにと、ムクティ先生が、食事の準備の為だけに日帰りで来てくださったりと、先生達の姿を実際に見させて頂けたことが何よりも勉強となりました。

本当にありがとうございました。

 

そして、ビクシャーをしてくださった方々、ご理解とご協力をありがとうございました。

県外からのご参加の方も多く、このようなキャンプは初めてでしたので、緊張しましたが、

皆さまがいろいろと手伝っていただけたおかげで、無事終えることが出来ました。

本当にありがとうございました。

 

また、皆さまと次回お会いできることを楽しみにしています。

この教えが継続していけますように。

2016年

11月

23日

@Kanazawa

 

ヤンララスタジオ@金沢がオープンいたします。

日程はまだはっきりと決まっておりませんが、年内の予定です(リフォームとDIYで壁塗りなど、もろもろありますので、仕上がるのにお時間がかかります 

オープンにあたり、何か特別なことはしませんので、スケジュール等などは、決まり次第ホームページとフェイスブックにてお知らせいたします。(たま~に先生達のシークレットクラスがあるかもしれません)

@小松スタジオでのスケジュールも少し変更になります。しばらくはスケジュールも変化すると思いますので、ご迷惑をおかけいたしますがよろしくお願いいたします。

23年間、東京でずっとヘアメークのお仕事をしていたのですが、親の体調により、仕事もどのようにしていくかを考えながら、石川に戻る事を選びました。そのころに、特に興味もなかったヨーガを始め、とても面白くなってきたのですが、石川県に戻る選択をしたのですが、自分で練習は出来なかったので、そのヨ-ガを自分の練習として続けたいと思い、TTCを受講しました。

そして、いつの間にか、アーサナヨーガを教えることとなり、小松市にヨガスタジオをオープン。

最初はアパートを借りて、リビングでひっそりと始めました。そして、そこからスタジオとして構えることになりましたが、そこからも試行錯誤しながら7年が過ぎました。

皆さまに支えて頂き、先生達にもご協力頂きながら、そもそもヨーガって何なのか?を勉強しながら、何とかここまで、ヤンララも成長できてきたのではと思います。

そしてワークショップや、金沢の方々がヤンララに足を運んでくださること、ヴェーダーンタというものも、少しずつ学べる場所ができるようにという思いから、いろいろな方のご縁と支えが重なり、犀川の近くで静かな場所が見つかりました。

ヴェーダーンタなどのキャンプは県外からもご参加できますように宿泊の準備も整えていきます。

これからも、皆さまや先生達と一緒に成長できますよう、この選択という役割に没頭したいと思います。どうなるかは分かりませんが、よろしくお願い致します。

皆さまはもちろん、先生達、そして、この金沢に関しましては、身内の方達の、ヤンララが伝えるヨーガというものの理解とご支援をしてくださったことに大変感謝いたします。「ヨーガって何だろう?」を勉強していると、こういうことか・・・と思えるのとそれを実感しています(自分でびっくりしてます)。

これは、私一人では決して、成し得れないことです。本当にありがとうございます!

これからが、さらに自身の勉強も必要ですが、スタジオの管理というカルマも楽しもうと思います。

2015年

10月

09日

シャーンティ

シャーンティって、よく言われるのは平和とか穏やかとかの意味です。

ヨーガクラスの終わりとかにシャーンティッ・シャーンティッ・シャーンティヒーと唱えることも

多いです。それは、世界、相手、自分が平和とも言うのもそうですが、クラスの場合だと、世界(宇宙)、周り、自分に妨げがありませんようにということでもあります。

それで、クラスが無事に行えるというものという意味でもあるようです。

確かにそうだと思う。ただ平和もそうだけど、今、目の前にあることの妨げがないことがシャーンティであり、大切なことと理解できます。


そして、瞑想によるシャーンティはそういう穏やかとかの意味ではなく、それによって、解決すること

(自分は行い手ではない)という意味です。

行い手ではないというと、また、誤解をしてしまいそうな言葉ですが、行い手がなくなるという言葉通りのやらなくてはいけない役割(仕事や、家族など)すべての役割などの行いを辞めて、ヨーガを求める生き方をするとかではなくて、瞑想などで自分の役割は自分の中に解決するのであって、役割はあります。そして、その与えられた、選択した行いの役割はしなくてはいけないものです。

嫌とか合わないとか、ヨーガに携わってれば良いとかで、何かを放棄するのではないということです。自身の中に解決でき、手放される考えがシャーンティみたいですね。

すべては自身の中のことであり、そこに問題をみつけるのも解決できる成長も自分の中のことですね。

すごーく、わかりやすいなぁと思うけど、そのわかりやすいを理解できるゆとりのスペースが難しい。


そのシャーンティには3つの種類があり、一つ目のシャーンティは、何であれ、思考がないもので、熟睡中な時もそうだし、動揺と動揺の間の一時的な考えがない状態。

2つ目はいろんな考えが起こるのを知りつつ、その自分と考えの間に少し距離をもてるとき。

自分は考えではないという客観視できてきてる人(シャマ)ある程度落ち着きがあり、状況をうまくやり取りできる状態。

3つ目のシャーンティはモークシャ(自由)で、考えが何であろうと、影響されないもの。

そして、いろんな考えは自分だけど、私自身は考えではないということがわかってる事です。

考えが問題を大きくしたり、小さくしたりしてるだけで、私が問題を引き起こしてるのではないというものです。そして、考えを止めるとかコントロールするとかポジティブに考えるというような、どこか別に考えを追いやるのでもないです。

考えにどんなものを想おうが、いずれ考えは去っていくので、何も考えに影響されることがないという扱い方ができる状態の知識が自由という意味のモークシャです。

そのことをしってる人の考えは役に立つし、恩恵を与えます。その理解をすることで、自身がシャーンティというもの。

この知識がいつも持っているので、考えがどこにあっても、イーシュワラ(神とか自然とか)はそこにいて、自分とは離れていないので、本当の意味で、それが帰依者(バクティー)なのですね。

常にバクティーはあるもので、独立したものでもないと思いました。


なので、一つ目のシャーンティはあまり、意味がないかもしれません・・・

2015年

9月

29日

エゴ

エゴというとアハンカーラと言われます。

私、私という個人の観念。そして、エゴというとなんか響きが悪い印象があります。

よく耳にするのが、エゴを落としましょうとか破壊しましょうとか・・・

そのエゴを落とすって?どうやって?みたいな疑問もあります。

そもそもエゴって自分という考え、私は女性です、母です、父です、名前は○○ですという役割の個人というセンスが中心になっていることで、それが私という見方です。私とは何?ということを知らないと、当然その鞘(コーシャ)に閉じ込められてます。


アハンカーラ(エゴ)が悪いとかではなく、本当の自分自身は何からも影響を受けないものと知ることで、個人としての観念が道具としてそれぞれの役割として、社会とコミュニケーションをとれること、それを楽しめるゆとりが役立つというものです。

アハンカーラは社会に役立つ、役割なので、それをしっかりこなすことです。意味があってそれぞれに役割として装ってるので、それを楽しみましょう。ただ、その役割が私の本質ではないと知っているからこそ、楽しめるということです。


そのエゴ(アハンカーラ)というものをしっかりと分かっていないと、混乱してしまうし、エゴを捨てなさいとかの表現を誤解してしまいます。まるで、エゴ自体が悪いみたいな錯覚。

自分という観念があるので、感情や気分と同一視して、それに閉じ込められてるだけなので、自分とはそうではないと知ることが大切です。自分はアハンカーラではないと理解する練習が大切です。

その練習に瞑想が役立つということでした。

アハンカーラがなくなるのではなくて、知ることで。それが解消されるというもの。


ほんと、エゴとかアハンカーラの説明って、誤解が生じやすいので、扱うのも気を付けないといけないなぁと思います。それがわかってる上で、ちゃんと言葉の説明が大切だなぁとつくづく思います。

いろんな役割のときの感情や気分、自分の考えの癖を知ることで、そのアハンカーラも楽しめますように。

2015年

9月

17日

最初の瞑想

瞑想の意味っていろいろな事ややり方があり、そもそも瞑想の意味ってよく分かってませんでした。

イメージングな瞑想も、五感や考えをコントロールし、集中(八支則のプラティヤーハーラ、ダーラナにあたる)とか言われてて、何かいつも、何なんだろうと思ってました。

まずは瞼を閉じましょうとか・・・

 

まず、瞑想の目的って、考えをキレイにするため、考えを整理整頓して、定着させていく練習と知らされてからは、すんなりと瞼が閉じれると思いました。

瞑想にも段階があり、まずはウパーサナ瞑想で、ヴェーダーンタのの勉強したことを思い出し、自分に定着させていけるようにしていき、対象物を決めて(イーシュワラ)その中に生かされてるという想い方。ヴェーダーンタを勉強し始めた人の練習がまずは最初の瞑想です。

そして、その考えがさらに熟考されたらニディッティヤーサナ瞑想の段階です。

その瞑想はヴェーダーンタを勉強した人の瞑想で、対象物を設定するのではなくて、自分とイーシュワラは離れていない、自分の中にイーシュワラがいて、自身がそうであるという考えの熟考がある人の瞑想です。

 

プラティヤハーラは自分に考えを引き寄せられるようにコントロールや集中ができた状態で、ダーラナはイーシュワラを保ち、留めることができる状態。そして、ディヤーナ、瞑想はイーシュワラの中にあるという状態で、最後にサマーディ、没頭することでイーシュワラと一体で、イーシュワラの中に自分は解決してる状態。サマーディはとても大切な状態の体験であり、考えを熟考していくには必要です。常にサマーディでいれるわけではなく、それをゴールと思ってしまうとその状態にならなくてはという、違う意味での執着になってしまいます。気付かないうちに・・・サマーディにも段階があるそうです。

 

ですので、瞑想はアンタッカラナシュッディ(考えをキレイにしていく)練習であり、それを思い出す練習であり、自然にそれが自分に起こっていける練習が瞑想だと自分に知らされて、とても納得できるし、瞼を閉じることがとても自然に思えるし、自分自身が喜びであり、自身が安心安全、自身が良き友達であり、一番のパートナーだというのも納得です。

こんな穏やかな表現が瞑想という意味だなぁとつくづく思います。

2016年

11月

23日

@Kanazawa

続きを読む

2015年

10月

09日

シャーンティ

続きを読む

2015年

9月

29日

エゴ

続きを読む

2015年

9月

17日

最初の瞑想

続きを読む

2015年

9月

10日

人との関わり

続きを読む

2015年

9月

08日

思いやりの本質

続きを読む

2015年

9月

04日

穏やかさ

続きを読む

2015年

9月

01日

自分自身の扱い方

続きを読む

2015年

2月

12日

カルマヨーガ②

続きを読む

2014年

12月

04日

感情の2つ

続きを読む

2014年

12月

01日

プラマーナ②

続きを読む

2014年

10月

23日

知識を起こす道具

続きを読む

2014年

10月

07日

カルマヨーギー

続きを読む

2014年

10月

02日

カルマヨーガ

続きを読む

2014年

9月

19日

3つのグナ

続きを読む

2014年

9月

18日

2つの違い

続きを読む

2014年

9月

16日

続き・思い違い

続きを読む

2014年

9月

09日

聖典の教え

続きを読む

2014年

9月

02日

個人の2つの側面

続きを読む

2014年

9月

01日

モークシャ

続きを読む

2014年

8月

26日

ヨーガ

続きを読む

2014年

8月

22日

考えは道具

続きを読む

2014年

8月

21日

結果に対する執着

続きを読む

2014年

8月

14日

カルマ

続きを読む

2014年

8月

12日

カルマヨーガ

続きを読む

2014年

8月

07日

願望

続きを読む

クラスやお休みなどのお知らせ

新しいクラスが@Kanazawaで

始まります。

・3月からYukikoさんによる

シヴァーナンダヨーガクラス

(第1、第2日曜14時~)と

シヴァーナンダヨーガをベースとしたクラス(月曜10時~)

 

・4/18日からSachiさんによる

初心者クラスが始まります。

水曜クラス)10:30~11:45

日曜クラス)11:00~12:15

日曜クラスは5月から

 

・4月26日でRinaさんクラスは仕事上の都合により休講となりまして、新たにSachiさんクラスに変更となります。

 

スケジュールにてご確認ください。

***********************

クラス変更のお知らせ

@Komatsuスタジオ

金曜17:00⇒17:30スタート

***********************

@Kanazawa、@Komatsu

スタジオの時間お休みなどは

スケジュールにて

ご確認ください。

スケジュールはこちら 

***********************

初めてのヴェーダーンタ勉強会

次回の「いーしゅわらーやなまは」

勉強会&チャンティング第6回

@Kanazawa

5/19日(土)

13:30~14:50

@Komatsu

5/20(日)

13:30~15:30

最後の30分は、ハピネスを祈るスヴァスティ・パータや食事の前のチャンティング、一定期間唱えることで、願いがかなうと言われているサンカタナーシャナ ガネーシャ ストートラムにも挑戦していきたいなと考えています。チャンティングに慣れていけることで、祈りの行いであること、そして、意味も深まるような考えの準備もできるでしょう。

少しづつですが、ヨーガの意味を

理解し、きれいな考えにしていく道具として、この勉強会に参加しませんか?

くつろげるとは、すでにあるものであるがままのことをあるがままに見るということを知るだけです。

その知識以外にゴールはありません。

誰もが知る権利があり、そのゴールを教えているのがヴェーダーンタです。

ヤンララ@Kanazawa studio

ヤンララ@Komatsu studio

ヨーガを続けていると、

カラダや考えに何かしらの変化が

起きてきます。 

呼吸をコントロールしながら

ポーズをとると、

まず精神面が落ち着きます。

精神面が落ち着くことで

集中して、体を動かすことができてるなと気付いていけます。

クラスが終わった頃に何かしら

体も精神面もスッキリした体験ができてるなという気付き。

そして、普段の役割から離れた自分というものがリラックスしている

ことかもしれないという気付きとなります。

その気付きが、今までの考えや見方にも変化がおきてきます。

そこから、いろいろな識別や

見極めが始まり

自分とは何か?ヨーガって何?を

知りたいという願望がおこったら

ヨーガのはじまり。

何も不安のない考えからの自由。

自身がすで持っているものを知ることで自身の中で解決します。

まず、体を動かして、何かしら

自分自身にリラックスできている

ことに気付いていきませんか?

いろんな役割から離れた

基本の自分に留まる時間を少しもっていきませんか?

そして、基本の自分と

いろんな役割の自分との間に

スペース、ゆとりが持てることで

それぞれの役割

仕事や結婚や子育てが輝き、

楽しめます。

そして、これからのライフスタイルにヨーガを取り入れて

それぞれの役割を行いながら

ヨーガに変えてみませんか?

  yang lalah(ヤンララ)とは

虹という意味です

Medha Michika 先生のブログ

Muktih 先生のホームページ