シャーンティって、よく言われるのは平和とか穏やかとかの意味です。
ヨーガクラスの終わりとかにシャーンティッ・シャーンティッ・シャーンティヒーと唱えることも
多いです。それは、世界、相手、自分が平和とも言うのもそうですが、クラスの場合だと、世界(宇宙)、周り、自分に妨げがありませんようにということでもあります。
それで、クラスが無事に行えるというものという意味でもあるようです。
確かにそうだと思う。ただ平和もそうだけど、今、目の前にあることの妨げがないことがシャーンティであり、大切なことと理解できます。
そして、瞑想によるシャーンティはそういう穏やかとかの意味ではなく、それによって、解決すること
(自分は行い手ではない)という意味です。
行い手ではないというと、また、誤解をしてしまいそうな言葉ですが、行い手がなくなるという言葉通りのやらなくてはいけない役割(仕事や、家族など)すべての役割などの行いを辞めて、ヨーガを求める生き方をするとかではなくて、瞑想などで自分の役割は自分の中に解決するのであって、役割はあります。そして、その与えられた、選択した行いの役割はしなくてはいけないものです。
嫌とか合わないとか、ヨーガに携わってれば良いとかで、何かを放棄するのではないということです。自身の中に解決でき、手放される考えがシャーンティみたいですね。
すべては自身の中のことであり、そこに問題をみつけるのも解決できる成長も自分の中のことですね。
すごーく、わかりやすいなぁと思うけど、そのわかりやすいを理解できるゆとりのスペースが難しい。
そのシャーンティには3つの種類があり、一つ目のシャーンティは、何であれ、思考がないもので、熟睡中な時もそうだし、動揺と動揺の間の一時的な考えがない状態。
2つ目はいろんな考えが起こるのを知りつつ、その自分と考えの間に少し距離をもてるとき。
自分は考えではないという客観視できてきてる人(シャマ)ある程度落ち着きがあり、状況をうまくやり取りできる状態。
3つ目のシャーンティはモークシャ(自由)で、考えが何であろうと、影響されないもの。
そして、いろんな考えは自分だけど、私自身は考えではないということがわかってる事です。
考えが問題を大きくしたり、小さくしたりしてるだけで、私が問題を引き起こしてるのではないというものです。そして、考えを止めるとかコントロールするとかポジティブに考えるというような、どこか別に考えを追いやるのでもないです。
考えにどんなものを想おうが、いずれ考えは去っていくので、何も考えに影響されることがないという扱い方ができる状態の知識が自由という意味のモークシャです。
そのことをしってる人の考えは役に立つし、恩恵を与えます。その理解をすることで、自身がシャーンティというもの。
この知識がいつも持っているので、考えがどこにあっても、イーシュワラ(神とか自然とか)はそこにいて、自分とは離れていないので、本当の意味で、それが帰依者(バクティー)なのですね。
常にバクティーはあるもので、独立したものでもないと思いました。
なので、一つ目のシャーンティはあまり、意味がないかもしれません・・・