自分が人と関わる時はいろんな人たち(友達や恩恵を与える人、罪人、嫌われる人や身内など)のことをそれぞれ区別して、その役割として見て関わります。それが当たり前のことと思ってました・・・
自分でその役割の枠に入れて関わってます。自分で決めつけた枠の定義にはめて見ています。
なので、自分で決めつけた定義で関わる時は、その人自身と関わってるのではなくて、決めつけた定義と関わってるということです・・・先生だったら、」先生という枠で見るし、社長だったらその枠、
好きなように生きてるひとだったらその枠というように、枠で捉えた見方です。
人が枠でなく人と関わるのはとてもまれだし、その理解が難しいです。人を決めつけてしかいないので、定義としか関わっていないということ。
その人がどんな枠であれ、人として、真実を見て関われることの見方が大切です。
じゃあ、役割をなくして、同じように接するとかではなくて、役割、先生なら先生にたいしての接し方、友達なら友達の接し方で、関わるけれども、その人の本質は同じに見るというものです。
自分自身の定義にこだわってるので、自分のそうぞうした世界で生きてるようなもの。
それを知る言葉がない限り、その問題はなくならないと思います。
自分自身の不安や願望や痛みを抱えてるので自分を守りたいと思うし、仮面やバリアを通して世の中と向き合ってます。
それは自分が満たされてて、何からの影響も受けずに自由だということを自身にしられてないから。
そう、勉強してもなかなかその見方に変えていけるかは難しいです。なので、常にその教えが想い出せることが必要だし、それは勉強だったり瞑想やヤグニャ(儀式や祈り)が大切なのも納得です。
良い人も悪いひとも同じ人であり、悪い人がいるのではなくて、悪い事と分かってても(サーマンニャダルマ)悪い行いをしてしまう人がいるだけのことです・・・というもの。
どんな人でもそれをあるがままに受け入れ、対応していく、あるがままに受け入れる見方や能力は自分
が自由であるというこを意味してて、それが新しい関係や本当の関係が成り立つとのことです。
大体がコミュニティのグループができたり、同じ定義の枠同士で仲良くしたり、そこから外れてる人を区別したりです。それぞれの役割としての関わりは良いけど、それを理解した上で、その人と関われたら、確かに自分を定義してることからも自由だと思います。
少しずつでも、その見方が自然にできますように。