個人には2つの側面があり、自分は○○だ、怒ってる自分がいる、悲しい自分とかの、その個性。
それと、それを理解してて、その個性を装ってる人の2つ。
自分が行ってる人との見方をするひとは、なにもかもが自分の責任と思ってしまう。
自分はすでに満たされていて、自分がイーシュワラという見方の知識がないので、自分が・・・ということになります。無知(アヴィッディヤー)が原因で・・・
その原因はプラクルティ(質の源)で、プラクルティは質の源だから、ありとあらゆる可能性が潜んでます。聖典も含め、全てがプラクルティの現れ。体も考えも感覚器官も、そのプラクルティから生まれてる創造物。その創造物は何であれ、変化する性質があります。
意識もプラクルティから生まれてるので、その意識が、悲しいや楽しいや、そこはどうにか回避しなきゃとか、こうすると自分がダメになるからとかの様々な形で現してるだけ。
そして、それはブラフマンがプラクルティを使って現してるので、マーヤと同じ。
マーヤは、○○らしさ。ブラフマンが、いろんな、マーヤを使って、らしさを装って現してる。
そう思うと、マーヤもプラクルティも、私たちにいろんなものを見せてくれてるのですね・・・
良いも悪いも・・・
なので、全てプラクルティからの現れだから、自分が行い手で、自分が○○というアハンカーラ(エゴ)は、自分が全てしてると見てしまうけど、その行いもイーシュワラなので、それを知らないだけということ。理解するにはまだまだ、いろんな側面からみていかないとと思います。
自分の中に感情や気分があって、自分の見方でそう見てしまうので、「自分が行い手です」と思ってる
自分に気づけますように・・・自分がイーシュワラだと気づいてない自分に気づけますように・・・
これはこの理解で良いのかな・・・^_^;